top of page

甘えと自立



自分がある人は甘えをチェックでき、甘えに引きずられる人は自分がない。

すねる、ひがむ、ひねくれる、うらむ、はいずれも甘えられない心理に関係している。

日本人が一般に生真面目でゆとりがなく、ユーモアを解せないと外国人の目に映ることが多い。日本人は本来甘えたいがために、しかし実際にはなかなか甘えられないので、甘えを否定し、かくして「気がすまない」という窮屈な心境に低迷することが多い。

日本人の勤勉さはこの「気がすまない」強迫傾向に関係がある。日本のサラリーマンもみんな身を粉にして働く。それは現実の窮乏の然らしむるとこというより、むしろそうしないと「気がすまない」という方が事実に近い。


日本人は総じて「くやしい」感情を持ち、また奇妙なことだがそれを大事にする。「くやしい」感情をいやしむべきものだとは思わない。そこで歴史上の人物でくやしさを十分経験したと思われるものと同一化し、その人物を持ち上げることによって自分自身のくやしさのカタルシスをはかると考えられる。/日本人の「くやしさ」は必ずしも正義感とは結びつかない。


集団心理といわれるように、集団は得てして万人に共通した人間の最も低い衝動によって動かされることが多く、これに対する個人の抵抗がまったく封じられてしまえば付和雷同や迎合以外に個人のとるべき道はなくなる。この事情を理解するには満員電車の中につめこまれた時のことを考えてみれば良いであろう。

この場合彼らは自分の仕事が社会全体にとって、または自分の身にとって、あるいは自分の家庭にとってどのような意味を持ち、どのような効果を持つかということは考えられない。彼らは仕事のために多少の無理をすることも厭わない。

身内にべたべた甘える者に限って、他人に対しては傍若無人・冷酷無比の態度に出ることが多いように観察される。これは「くってかかる」「のんでかかる」「なめている」という対人関係の持ち方であって、要するに日頃甘えに慣れている人は、甘えられないとなると、人を食った態度や、吞んだ構え、またはなめた振りに出る。


個人的なヒステリーはわがままを通そうとして起きるものであるが、個人のわがままを許さない集団も、集団全体としてはヒステリックな行動に出ることがあり得る。


「自分がない」ということは、個人が集団に埋没ないし従属せざるを得ない。


わがままを通そうとすれば現実の壁にぶつかってヒステリーを起こすのが席の山である。


人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の意地を賞揚することである。


遠慮のある他人の好意に対しては負い目を感じ、一体感を持てる身内の好意に対しては平気でおられるという日本人の習性はわれわれにとって至極当然なことに思われる。このような世界では厳密な意味で個人の自由独立(自立)は存しない。

日本人は恥の感覚が特に強いと感じるのは、日本人が外国で生活する場合、恥ずかしがったり、自由に振る舞うことができないことが多いからである。そこには明らかに日本人が外国人に接する際の劣等感が作用している。言い換えればそれは、仲間と思われたいが、仲間として扱ってもらえないのではないかという恐怖である。


日本の社会では常に内と外が区別され、内側では保護され甘えられる仕組みになっている。しかし外の者に対してはすぐに甘えられないので多少は人見知りをしても不思議はないと考えられている。/甘えを卒業できずいつまでも人見知りをする対人恐怖を発するようになる。


元来人見知りの強い人間はますます甘えの不満をつのらせることになり、そのことが高じて対人恐怖を生ぜしめている。


西洋の感謝の表現は一般にさっぱりしてて後腐れがない。彼らは「サンキュー」と言えばそれで「すむ」ので、日本人のようにいつまでも「すまない」感情が残るわけではない。


日本では謝罪に際し相手に対し本質的には幼児のごとく懇願する態度をとり、しかもそのような態度は常に相手に共感を呼び起すので、あたかもお詫びが魔術的な効果を持つように外国人には見えるのであろう


敬語は文字通り自分より目上の人の人物を敬って使われる言葉であるが、使われる側からすれば、概して遠ざけられたというよりも、むしろ気持ちよく感ずることは疑いない。私はある機会から、目上に使う敬語と小さな子供に対して使う言葉使いが非常に似ているのではないかと思うようになった。例えば、「坊ちゃんはお利口さんですね」とか「お嬢ちゃんのお洋服はきれいですんね」とか、子供達に話しかけるのにやたらに敬語の「御」を使う。このことから私は、目上に敬語を使う場合も、子供の機嫌をとると同じように、もっぱら目上の機嫌をとることが目的ではないかと考える


日本では、集団から独立して個人のプライベートな領域の価値が認められない。

幼児的依存を純粋に社現できる者こそ日本の社会で上に立つ資格があるということになる。


昔のように大人らしい大人はいなくなって、子供のような大人が増えてきている。そしてこの大人のような子供と、子供のような大人に共通するものこそ「甘え」なのである。

以上、「甘えの構造」より特にピンとくる箇所を抜粋してみた。きっと日本人であるならば、身に覚えがあることが多いのではないだろうか。日本人は人から嫌われることを極端に恐れる性質があるが、著者の土居健郎はあえて耳の痛いことを言い続けてきた。その「甘えの構造」が世に出てから50年が過ぎたが、現代の「甘え」について少し考えてみたい。

西洋の言語には「甘え」のようにこの感情を一語であらわす言葉すら存在しない。ある研究者は、「甘え」にあたる現象を「受身的対象愛」(The anatomy of dependence)という用語で表現し研究していたが、それに相当する日常語が日本語のなかにあることを聞いて驚いたという。


外国ではたいてい自立していることが前提となって社会が形成されているが、日本の社会は依存し合うことが前提として制度設計されているように思う。つまり、甘えが暗黙的に容認されるため、いたるところで自立がはばまれるようになっている。なにより問題なのは、日本人が自らの「甘え」を認めることに対して拒絶反応を起こすことにあるのではないか。

例えば、甘え体質の人に自立した人を近づけると、自らの優位性を感じることができなくなる。すると、自立した人とは一線を画そうとする力が働く。その際、知らず知らず内在的に劣等感やひがみが増大していく。その卑屈さから自らを虚飾で覆わざるを得なくなり、人にどう思われているかが気になって仕方がない。このような負の循環を繰り返し、がんじがらめとなったまま肥大化し、後戻りできなくなってしまったのが日本社会の現状ではないだろうか。

かつて僕がインドの会社に勤めて頃、採用の面接を担当していたことがあった。日本人が面接に来るとたいてい同じ様式の履歴書を持参して、英語の資格を有していることや、懸命に勉強してきたことを自負する人が多かった。たくさん知っていることや、どこに所属していたかを主張し、何が分かってて、自分が何をしたいのかは問題にされず、「自分だけ」のことを一方的に話す人が多かった。英語についても英語が話せるかどうかよりも、英語を勉強したという事実の方が重要視される。何より、日本語を話すことに誇りを持つことがためらわれる傾向が見られる。ところが、外国人と面接する場合は、自分の言葉で互いに対等な目線で話そうするため「対話」となりやすかった。履歴書も拙いながらもそれぞれ自発的なアイデアで作成してくる。


日本の社会では意志決定への依存、過剰なサービスの要求などに見られるように、過保護にされることが暗に要求されているように思う。そうした心理が当たり前のこととして育ってきた私たちは、外国の人と比べると幼児化する傾向があるのではないか。

人が集まれば空気を読み合い、レストランなどでは人と目を合わせることなく食事ができるようになり、アイドルやメイド喫茶のように甘えに巣食うビジネスまで繁盛する。そして、人々は「お客様」として扱われないと不満を感じる。

組織では、先輩が幅を利かせ後輩はへつらい馴れ合うような関係性をよく見かける。それに追従できないものや、名誉や自尊心を殺せないものはあからさまに無視され排除される。テレビの人気番組などでは、自分を貶めて笑いを取れないものはなかなか芽がでない。その感覚は視聴者にも蔓延し、他人の頭を叩いたりするようなギャグが受け容れられるようになる。

一方、西欧の国では、個人の誇りを重んじるため、互いを自立した人として尊重し合う土壌がある。テレビでも、現実的でシリアスな番組がありふれていて、出演者もしっかり相手と向き合い対話をしようとする。日本であれば、政治家が与えられた原稿を目を伏せながら読み上げても許されるが、他の国では許容されず、相手の目をみて、自分の言葉で語りかけることが求められる。また、アイドルやタレントのように別人に逃避しようとする文化もあまりみられない。おそらく、人の頭を叩くようなギャグをやっても誰も笑わないだろう。中身のないものは誰にも相手にされない。そうして自立心が鍛えられる。

日本のように依存性が重視される社会では、自立性の入り込む余地がなくなってしまう。

例えば、60年代、芸術活動をしていた人たちは、メディアから冷遇され隅に追いやられた。「アングラ」と呼ばれる場で、寺山修司や土方巽などは、自分以外の他者と対話し、海外でも高い評価を得ていた。しかし、そうした自立性が日本人になかなか受け容れられないのは今も昔も変わらないように思う。おそらく、日本には芸術性(現実性)を受け容れる土壌が育ちにくいからだろう。 1970年、大阪万博が開催された頃の土方巽と澁澤龍彦の対談はそうした状況をよく現しているように思う。

土方:アンダーグラウンドなどがすべて風俗化していくのも、外部のせいじゃなく、やってる人間たちの問題じゃないかと思うんですね。すぐ自分の外側に砂漠を設定して、水もないなどと言う。そんなこと言う前に、自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか、自分のからだにはしご段をかけておりていったらどうだろうか。自分の肉体の闇をむしって食ってみろと思うのです。ところが、みんな外側へ外側へと自分を解消してしまうのですね。

澁澤:しかし、芸術は本質的にアンダーグラウンドに行くべきだと思うのだけれど。つまりアンダーグラウンドというのは、近頃の象徴主義に対する反動でしょう。そして、象徴主義というのは、結局万国博覧会でしょう。

土方:そうですね。とにかくみな万国博覧会になびく。

澁澤:ぼくは万国博覧会というのは、もし芸術運動というものがあるとすれば、まさにその敵だと思う。アンダーグラウンドが生きるためには、万国博をもっともその敵にすべきだと思う。

土方:ですから、あれは身上調査みたいになってしまうけれども、あれに参画している人達はみな大勢順応だ。ちょっと世の中の様子が変わるとカレンダーめくりになりますね。企画馬鹿もいるし、顔つきがみな土地斡旋屋に似てきましたね。ぼくはもう付き合いきれませんね。そういう人間の醜悪的な関係から手を切りたい。

−日本芸術論集成(澁澤龍彦)


時を経て現代では商売人がさらに幅を利かせる時代となった。あらゆるものにテレビタレントや専門家のお墨付きというメッキがされ大量に複製される。セールスマンのようなアーティストが蔓延り、そこに損得勘定が織り込まれていることに目は向けられない。人々に判断力が芽生えてしまったら商売は繁盛しないからだ。

明治以降、日本は西洋の制度や文化をやたらに取り入れてきたが、「自立」という土壌がなければ本当の意味で彼らの精神性を吸収することはできない。日本人が西洋の真似をすると滑稽にみえてしまうのはそこにあるのではないか。


特にここ数十年のわずかな間に私たちの生活は劇的に発展し、行き着くとこまで行き着いてしまった。「足るを知る」ということわざは悪徳になってしまった感さえある。子供を叱ればパワハラ、気に入らなければクレーム、我の欲するところに歯止めをかけることよりも、経済を発展させることが正義とされる。人々は、過剰なサービスを要求し、次から次へと生活用品を買い換えさせられ、負債を抱え合い、あらゆるものの尺度が、利用価値や経済損失になってしまった。そこから、自らを律して立ち止まることは容易なことではないと思う。

古来より忠誠心が尊ばれてきた日本社会では、自分に対して誠実であることに引け目を感じてしまうDNAが脈々と受け継がれているように思う。そうした中で「自立」を重んじる西洋文化が入ってきた途端に、みな宙ぶらりんとなってしまい、自分が誰だか分からなくなってしまった。そしてその空白は、サイエンス、エコノミクス、エゴイズム、アカデミズムに浸食され、強迫的に別人にさせられてきたのではないだろうか。

自分を認められなければ、他人を受け容れることはできない。知らず知らず、私たちは「自分だけ」の世界に閉塞し、他者への「不寛容」が助長されてきたように思う。


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page