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芸術性について


芸術が希少な存在となり、アートやトレンドと呼ばれるものに置き換わって久しい。巷のギャラリーなどを覗いてみてもどこか違和感があり、何かしらの効果を狙ったもの、または我を押し付けるようなもので溢れ返る。

そもそも、芸術とは「塗ること」ではなく「剥がすこと」ではなかっただろうか。困難と向き合い、それを克服する過程で自然発生的に生み出されてきたものだと思う。

なぜ繕わなければならないのか・・

なぜ迎合しなければならないのか・・

なぜ押し付けなければならないのか・・

そういったことにひとつひとつ向き合うことで、剥がれ落ちていくものが作品とよばれるべきだと思うし、また、そうして抜け殻として剥がれ落ちることで、人は誰しも新しく変わっていくものではないだろうか。

世の中にはやりきれないことが溢れている。 しかし、生きていくことは目の前に立ちはだかる困難と向き合うか、目を逸らすかの二択しかない。応じるか、転嫁するか、そのどちらかだ。ところが、大半の人は後者を選ばされてしまうのではないだろうか。それはこの国が「消費」大国となってしまったことと無関係ではないだろうと思う。


作品が商品という位置づけになれば、「量」が価値規準となり「質」は排除され、「創造性」や「作家性」は否定される。集客という行為によって1人の眼を開いた者よりも99人の盲目の嗜好が優先される。そうして大多数の人が温室の中で溶かされてきたではないだろうか。

人が「消費者」や「お客様」と呼ばれる限りその個性は認められ得えない。テレビ、ブランド、イイネ、イイネ・・・、お客様化された人たちは、自分で判断する力、他者と向き合う力、想像する力を削がれてしまい、そうした風潮がアートやトレンドと呼ばれるものの温床となってしまっている気がする。現実はオブラートに包まれ、コンビニのおにぎりのように模倣品を作ってはすぐ廃れ、毒にも薬にもならないもので溢れかえる。


日本語には「足るを知る」という言葉があるが、現在では悪徳とされてしまった感さえある。

みんなが与えられたものだけで工夫してしまったらどうなるだろうか。

みんなが自分で判断する力を得てしまったらどうなるだろうか。

近年の閉塞感はどこから来るのか。


現実から目を逸らせるものと、現実に立ち返らせるものがあるとしたら、後者でありたいと思う。


愛のため、地球のため、未来の子供のため、そう叫び続けてきた私たちは果てしなく遠くまで来てしまったように思う。物を持てば持つほど、人たちの顔は暗くなってゆく気がする。

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